『東海道中飛車栗毛』の翌年、1931年(昭和6年)より
目呂二は、またの号 『龍興』(りゅうこう) を用いるようになる。
広く世間を騒がせた飛車栗毛のパフォーマンスは、
それを喧伝したメディアによって、
“奇行の人” としての目呂二のイメージを決定的なものとした。
しかしその素顔は、優しく、穏やかな性情の目呂二である。
50歳を目前にして、 “奇人・目呂二” を演じ続けることに
いささか疲れを感じていたのではあるまいか。
あるいは、当時の新聞・雑誌が、尾鰭を付けて面白可笑しく伝える
“目呂二像” に、辟易としつつあったのかも知れない。
『龍興』 の名を考案し、目呂二に勧めた彫刻家 雨田光平は、
目呂二の没後
“ 「龍興」 を名乗るようになってから、次第にそれまでの、
皆が愛してやまなかった目呂二の明朗さやウィットは影をひそめ、
深く沈思思考する哲学者の如き風貌へと変わって行った。
その変化の責任は、自分にあるのかもしれない。” と
かすかな悔恨の念をもって述懐している。
また、1938年(昭和13年) 自由律俳句の萩原井泉水に共鳴、師事し、
衒いのないありのままの自然の情景を詠みこんだ句作を重ね、
これらの句は、しばしば目呂二の俳画に伴われている。
否応無くコマーシャリズムにまみれて行く “目呂二” の名を離れて
虚飾の無い自然を通して、自らの真の姿を見つめ直すとき、
『龍興』 の落款は、欠くべからざる “手形” であったのだろう。
これらの俳画は、激動の時代を駆け抜けた末に目呂二がたどり着いた、
表現者としての、そしてひとりの人間としての「境地」と言える。









『徒らに 大きなものを 望むべからず』
目呂二がしばしば好んで描いた
大金棒を持て余す鬼の姿。
後世に残された我々に対する
貴重な箴言である。
目呂二は、またの号 『龍興』(りゅうこう) を用いるようになる。
広く世間を騒がせた飛車栗毛のパフォーマンスは、
それを喧伝したメディアによって、
“奇行の人” としての目呂二のイメージを決定的なものとした。
しかしその素顔は、優しく、穏やかな性情の目呂二である。
50歳を目前にして、 “奇人・目呂二” を演じ続けることに
いささか疲れを感じていたのではあるまいか。
あるいは、当時の新聞・雑誌が、尾鰭を付けて面白可笑しく伝える
“目呂二像” に、辟易としつつあったのかも知れない。
『龍興』 の名を考案し、目呂二に勧めた彫刻家 雨田光平は、
目呂二の没後
“ 「龍興」 を名乗るようになってから、次第にそれまでの、
皆が愛してやまなかった目呂二の明朗さやウィットは影をひそめ、
深く沈思思考する哲学者の如き風貌へと変わって行った。
その変化の責任は、自分にあるのかもしれない。” と
かすかな悔恨の念をもって述懐している。
また、1938年(昭和13年) 自由律俳句の萩原井泉水に共鳴、師事し、
衒いのないありのままの自然の情景を詠みこんだ句作を重ね、
これらの句は、しばしば目呂二の俳画に伴われている。
否応無くコマーシャリズムにまみれて行く “目呂二” の名を離れて
虚飾の無い自然を通して、自らの真の姿を見つめ直すとき、
『龍興』 の落款は、欠くべからざる “手形” であったのだろう。
これらの俳画は、激動の時代を駆け抜けた末に目呂二がたどり着いた、
表現者としての、そしてひとりの人間としての「境地」と言える。








『徒らに 大きなものを 望むべからず』
目呂二がしばしば好んで描いた
大金棒を持て余す鬼の姿。
後世に残された我々に対する
貴重な箴言である。




